闘うコラム大全集

  • 2015.05.21
  • 一般公開

左遷された片桐氏の至福の月日

『週刊新潮』 2015年5月21日号

日本ルネッサンス 第655号


「もう少し、あのとき頑張っていればよかったと、思うことがあるんです」


片桐幸雄氏は上梓したばかりの『左遷を楽しむ』(社会評論社)を前にこう語った。私は問うた。


「あのとき、精一杯やったじゃないですか。力を出しきって戦ったでしょう。もっと頑張ればよかったと言う理由は、何ですか」


片桐氏はここで言葉を濁した。


氏は、小泉内閣の下で華々しい脚光を浴びた道路関係四公団民営化推進委員会に、日本道路公団から事務局次長として出向した人物だ。


猪瀬直樹氏が民営化の旗手としてもち上げられた道路公団改革ほど、世間の耳目を集めながら壮大な失敗に終わった改革劇は他に例がない。民営化委員会は最終意見書を出すまでに分裂し、7人の委員が5人に減った。5人の総意で提出した意見書は、小泉首相(当時、以下同)が法案作成を国交省に丸投げしたために完全に無視され、法案は意見書とは根本的に逆の、偽りの民営化法案になった。だが、猪瀬氏は改革から程遠い改悪案を改革だと主張して喧伝した。


真の改革か、偽りの改革か、そのせめぎ合いの中で、片桐氏は道路公団総裁、藤井治芳(はるほ)氏の逆鱗に触れる。片桐氏が憎まれた原因は、そもそも道路は誰のものかということに対する認識の相違から生まれている。藤井氏らは「道路は国のもの」だと考え、片桐氏は「高速道路は私物として民営化すべき」だと考える。


その片桐氏が、小泉首相肝煎りの道路公団民営化委員会に出向したのだ。旧国鉄が民営会社のJRとして見事に生まれ変わったように、道路公団を、借金返済が可能で、未来世代へのツケ回しなしに利益をもたらす企業に生まれ変わらせるのが小泉改革の目的だったはずだ。


民営化の基礎をしっかりと築き、成功事例とするために片桐氏が職責を果たそうとしたのは当然である。だが、前述のように、その考え自体、藤井総裁及び道路公団本体の本音とは相容れなかった。片桐氏ら改革派の不幸は、改革のスローガンを叫びポーズをとることに巧みだった小泉首相が、最終場面で改革とは正反対の方向を向いてしまったことだ。


「天の恵み」


片桐氏やその部下と目された道路公団の中堅職員らは排除され、氏は2003年6月、香川県高松市の道路公団四国支社に副支社長として出された。「朝日新聞」は同人事を「突然の左遷で、改革派一掃人事」(03年6月1日付朝刊)と報じた。


それだけでなく、氏は藤井氏と道路公団から名誉毀損で訴えられ、公団の賞罰委員会にもかけられた。こんな状態で送られた高松での1年と半月を描いたのが、氏の新著である。


同書で氏は、他人の視線は兎も角、自分も「カミさん」も高松行きを悲観的にとらえたことはなく、楽しんだと繰り返している。淡々とした描写の中から、さぬきうどんの美味しさ、暮らしの基本である食事の安さと素朴な味わいがあたたかな人情と共に伝わってきて、嬉しい気持になる。これでは藤井氏も左遷した甲斐がないだろうと気の毒に思う程だ。


本書で感ずるのは、片桐氏は基本的に学究の人であるという点だ。これまでの氏の著書、たとえば、『国際通貨問題の課題』(批評社)、『スラッファの謎を楽しむ』(社会評論社)などを見ても同じ思いを抱く。こんな人物だから、普通ならめげる左遷が、給料を貰って好きな書物を読み耽る至福の日々へと大変質してしまうのだ。


私は、氏が手書きの文章のよさを見直す場面にとりわけ共感した。高松で氏はコンピュータを使わずに、書物や資料を読み、手書きでカードにまとめる作業に没頭している。作業を通して「紙が圧倒的に優れている」と実感し、「『天の恵み』を感謝しなければならない」と書いた。


読みながら書き込む。書き込んでさらに考える。あちらに書いたことやこちらのメモが、深く考えさせてくれる。思考が手書き作業を通してまとまっていく。そして突然、バラバラの情報や知識がパッと有機的につながり、深い意味での真実へと導かれる瞬間が訪れるのである。書物を読む人、資料を読む人にとって、最高の喜びの瞬間である。氏はこの至福の時間を持てたことを「天の恵み」と書いた。氏にとって高松暮らしは実に得難い日々であり、世間が考える「左遷の辛さ」や「孤独感」とは、本当に無縁だったのだ。


氏は何を読んだのか。氏の日常には須賀敦子が度々登場する。私も彼女の訳詩を声に出して、リズムを添えて読むのが好きだ。


次なる使命


氏が高松で最初に読んだのが須賀訳のウンベルト・サバの詩集だった。猪瀬氏は「片桐は藤井との権力闘争に敗れて左遷された」と的外れな指摘をしたが、そんなことは全く気にもせず、これを最初に読んだ。


私はふと思った。氏はウンベルト・サバの詩を、美しい海に面した高松で、声に出して読んだだろうかと。


あり余る時間の中で、氏は新聞を隅から隅まで読んだ。尾崎#秀実#ほつ み#に倣って、「赤と青の鉛筆でアンダーラインを引きながら、各種の新聞を一字のこさず、批判的に、しかもメモをとって読」んだそうだ。尾崎は一高時代からの友人、羽仁五郎に勧められてこの方法を確立したと氏は書いているが、片桐氏のルーツがリベラルなのがわかる。


記者クラブ制度を作った時点で日本の新聞は半分死んだと喝破する氏に、私は同意するが、日本の各新聞は猪瀬氏を改革の旗手と持ち上げ、それは一時期、奔流のような勢いを有していた。かつても今も、メディアには奔流現象が起きる。だが、そんなものに押し流されまいとした言論人がこの国にはいたのだ。真の自由主義者であった「信濃毎日新聞」の主筆、桐生悠々も、軍部の圧力の前でも自説を貫いた福田恆存もそうである。そんな人々の著作が片桐氏の読書圏に入ってくればもっと面白いのにと、勝手に思った次第である。


さて、氏を追放した藤井総裁は03年10月、解任された。片桐氏への訴えは、最高裁まで争われたが、藤井氏の主張は悉く退けられた。


片桐氏は04年6月に道路公団本社に戻ったが、公団は05年10月になくなり、名ばかりの民間会社が事業を引き継いだ。猪瀬氏は都知事になり、5000万円問題を機に辞職し、最近は若い女性との写真でグラビアを賑わせた。


人の在り様も社会の在り様も変化する中で、片桐氏は道路公団改革について、原稿用紙4000枚超の資料整理を終えた。「もう少し、あのとき頑張っていれば……」と思う気持を残している氏の次なる使命は、資料を生かし、道路公団改革の「顛末といま」を書くことであろうか。氏が稀代のペテン劇の実態を抉り出すのを、私は楽しみにしている。

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