闘うコラム大全集

  • 2017.02.16
  • 一般公開

4代前の孝明天皇、闘いの武器は譲位

『週刊新潮』 2017年2月16日号

日本ルネッサンス 第741回


孝明天皇は明治天皇の父帝で、今上陛下にとって、4代前の直接のご先祖である。孝明天皇は幕末の動乱時代を文字通り闘い抜いて、突然死した。余りにも急な死に毒殺説が流布された程だ。孝明天皇の闘いを理解するには、同天皇の祖父帝、光格天皇を理解しなければならない。

 

光格天皇は、江戸幕府と激しく衝突しながら、63代の冷泉院から119代の後桃園院まで900年弱の間途切れていた「天皇」の称号を復活させるなど、廃れていた皇室の権威を取り戻し多くの神事や祭祀を復興した一生だった。同天皇については先週の当欄で取り上げたが、その政治的、社会的遺産を引き継いだのが孫帝の孝明天皇である。

 

孝明天皇は天保2(1831)年に生まれ、弘化3(1846)年に16歳(数え年、以下同)で践祚(せんそ)し、在位20年間、36歳で慶応2(1866)年崩御した。孝明天皇践祚の6年前、1840年のアヘン戦争で清国はイギリスに完敗し半ば植民地とされた。幕府も震え上がった戦争である。列強が日本をも狙う中で、わが国と長い交流のあったオランダ国王は、清国と同じ運命に陥る危険を回避するために開国を勧める親書を送った。

 

以降数年間に、琉球、浦賀、長崎、相模鶴ヶ丘、西蝦夷地、下田などをフランス、アメリカ、イギリス、デンマークなどの船が度々訪れては威容を誇示した。迫り来る危機を多くの人々が感じ始めた時代である。

 

その時、若き孝明天皇が幕府に海防勅書を下した。重なる異国船の来航に対して、幕府は厳重な海防態勢をとっているではあろうが、心配だとし、「異国を侮らず畏れず、海防をいっそう強化し、『神州の瑕瑾(かきん)』(日本国のきず―恥)とならないように処置」せよと言い渡した。


開国に断固反対


『幕末の天皇』(講談社学術文庫)の著者、藤田覚氏は右の勅書で朝廷が幕府に対外情報に関する報告を要求したことに注目する。政治権力から隔てられ、幕府の威光に圧倒され続けていた朝廷が、国際情勢の変化の中で幕府が力を落とし始めたその機を逃さず、朝廷の影響力を強め、地位の逆転を図ったのだ。国政についてまず朝廷に報告せよと、義務を負わせたのである。地位の逆転。これこそ祖父帝光格天皇の残した政治遺産である。光格天皇が強化した朝廷の力と威光を孝明天皇はさらに強化し、活用した。結果、幕府と日本国の政治は激しく揺さぶられ、動乱の渦を引き起こしていく。

 

嘉永6(1853)年、アメリカ東インド艦隊司令長官のマシュー・ペリーが浦賀に来航、黒船4隻の衝撃の中で孝明天皇が果たした役割について、藤田氏が刮目の事実を書いている。

 

幕府は開国を要求するアメリカ大統領の国書に容易に回答を下せないまま、諸大名の意見集約と「人心折り合い」を探った。アメリカの力に押し切られた幕府は安政元(1854)年に日米和親条約を結び、下田・箱館を開港した。

 

和親条約に続いて修好通商条約締結も迫られた幕府は安政4(1857)年暮れ、諸大名を江戸城に集め合意形成を図った。幕府は大名の7割は賛成と見たが、尚、異論を封ずるために朝廷の勅許を得るべく、外交担当の老中堀田正睦(まさよし)を京都に派遣した。ところが、幕府の思惑とは対照的に安政5(1858)年1月25日に天皇が関白九条尚忠(ひさただ)に送った宸翰(しんかん)にはこう書かれていた。


「通商条約については、たとえ老中が上京していかに演説しようとも断固拒絶する、もしも外国人が納得しないならば『打ち払い』、すなわち攘夷する決心だ」(『幕末の天皇』)

 

朝廷側の意見は必ずしもまとまっていなかったが、孝明天皇だけは開国に断固反対だった。天皇の思いは公武合体で幕府を強化し、鎖国を続け、その上に君臨することだった。

 

そもそも朝廷の意思は朝議によって決定される。朝議は関白をはじめ、議奏(ぎそう)、武家伝奏(ぶけてんそう)という職責にある公家らの合議による。叡慮(えいりょ)、つまり天皇の考えだけで決定されるわけではない。そこで堀田は必死に説いた。「地球上のあらゆる国と国民を資本主義的市場経済に引きこんでやまない世界情勢の激変に直面し、選択肢は、そのなかに入ってゆくか、拒絶し鎖国を維持するため戦争するしかない、しかし勝利する可能性はない、とすれば通商条約を締結して世界の市場経済の一員となり、国家、国勢の挽回を他日に期すしかない」(同)と。

 

公家らの前で開国こそ生きる道だと説く堀田の主張は正論である。しかし、孝明天皇は堀田の説明を疑い、左大臣近衛忠煕(ただひろ)に宸翰を送って本当に日本は戦争には勝てないのか、調査せよと命じている。開国反対の余り、天皇は幕府の考えに一切、耳を貸そうとしなかった。


最大最後の抵抗

 

眼前の国際情勢の激変から目を背ける孝明天皇は朝廷内においてさえ孤立し、対米通商については幕府に白紙委任する方針が朝廷の意向として打ち出された。それでも天皇は諦めず、より多様な意見を聞いて決着せよとの宸翰を3月7日に発した。

 

天皇の指示は公家たちを動かし、5日後、公家88人が御所に集合し、幕府一任取り消しを要求した。藤田氏は「孝明天皇の鎖国攘夷という不動の意思が公然」となったと書いた。天皇の幕府への挑戦は、公家を巻き込んだ各藩の武士たちの尊皇攘夷派、佐幕派の対立を深めていった。

 

対する幕府は彦根藩主井伊直弼を大老に任じ、井伊は日米修好通商条約調印を断行した。天皇は激怒し、幕府の非を鳴らした。天皇の怒りと幕府問責を広く知らしめるため、幕府だけではなく水戸藩へ、また水戸藩を通じて三家、三卿、家門大名に、さらに近衛家などを通じて姻戚関係のある大名にも、幕府の非を伝えるよう命じる「戊午(ぼご)の密勅」を出した。

 

天皇の振舞いに幕府は激しく刺激された。井伊は天皇を担いで幕府に抗そうとする反対派の弾圧に乗り出した。多数の有為の人材の命を奪った安政の大獄の始まりである。

 

対して孝明天皇も憤慨し、幕府に究極の闘いを挑んだ。『孝明天皇』(福地重孝、秋田書店)にはこう書かれている。


「孝明天皇はひどく怒られ、安政5年(1858)6月28日、時勢がここに至ったのは、聖徳の及ばざるためであると、深く幕府の専断をなげき、関白九条尚忠らを召して『譲位の密勅』を賜わった」

 

天皇の究極の武器は譲位だったのである。福地氏はさらに書いた。


「8月5日、幕府のやり方が天皇の意志に副わないので、天皇から重ねて譲位の勅諭があった。天皇が退位するというのは、天皇の幕府に対する最大最後の抵抗である」

 

今上陛下のお言葉に関連して現在進行中の議論を考える際、このような歴史もまた、振りかえらざるを得ないのではないだろうか。

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