闘うコラム大全集

  • 2025.08.21
  • 一般公開
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櫻井よしこ×橋本英二「USスチール買収」の舞台裏と対中戦略

『週刊新潮』 2025年8月14・21日合併号

日本ルネッサンス 第1159回


風雲急を告げる日米関係において唯一の朗報といっていいだろう。米・鉄鋼大手「USスチール」の買収を完了した日本製鉄は、いかに超大国と渡り合ったのか。その舞台裏と今後の対中戦略を、同社の橋本英二会長がジャーナリストの櫻井よしこ氏に明かしてくれた。


櫻井 USスチールの買収が実現するまでの1年半、アメリカの大統領二人に大勝負を挑む姿を拝見していて、令和の時代に本当の日本男児がいた。そのことが嬉しかったです。


橋本 振り返れば本当に長い道のりでした。


櫻井 大国を相手にした交渉の経過は、外からは分からない凄まじいご苦労があったと思いますが、その辺りからお伺いできれば。


橋本 そうですね。そもそも、なぜ我々がUSスチールの買収を考えたのか。その点を説明しておきたいと思います。私が経営者として大事にしていることは二つだけです。一つは技術力を日本にどうやって残すか。そのためには生産が持続的に拡大する必要がある。生産を縮小すれば、技術力を維持して発展させることはできなくなります。


櫻井 なるほど。


橋本 かつて新日本製鐵(現・日本製鉄)は世界で一番たくさん鉄を生産していました。その前の世界一はUSスチールですが、今や中国に取って代わられた。日本の鉄が弱くなったのは、我々が「成熟産業になった」などと言い訳をして、最も基本的な「量の拡大」を疎かにしたから。ゆえに衰退したのです。新日鉄が世界一になったのも、旧八幡製鐵と旧富士製鐵が合併したためで、自らが成長した結果ではなかった。


櫻井 中国はどうですか。


橋本 中国も10社以上が集まった末の世界一に過ぎません。やはり自力で生産量を増やしていかないと技術力が落ちてしまう。何より若い技術者が成長する機会がない。日本製鉄を「成長ありきのDNA」が根付く世界一の組織に変えたかった。


櫻井 二つ目に大事にされていることは何でしょう。


橋本 もう一つは社員の給料を増やすことです。待遇改善は“社長の通信簿”であると考えていますが、製造業で給料の高い会社の代表格はトヨタ自動車さん。そこに追いつくことを目標に、ようやく2年前、私が社長だった最後の年度に達成しました。


櫻井 追いついたのですね。


橋本 とはいえ「生産で世界一」という目標は途上でした。私が社長になった初年度は、インドの大きな製鉄会社を買収しました。これは欧州に拠点を持つ世界最大級の鉄鋼メーカー・アルセロールミッタルとのジョイントベンチャーでした。順調に成長していますが、お互いイーブンに成長しますので、世界一に追いつくことはできない。ならば先進国の最大市場、今後とも伸びる市場で勝負をしなきゃいけない。それで何年も前から、どういう方法があるかを検討していました。


櫻井 そこにUSスチール買収の機会が巡ってきた。


橋本 2023年8月に国際的な入札となり、世界の有力数社が競っていた。そこに勝負をかけました。USスチールは欧州にも製鉄所を持ち、欧米の事業に参画できるのが魅力的でした。


櫻井 23年12月に日鉄は合併契約締結を発表しますが、翌年にアメリカ大統領選が控える中、まずUSW(全米鉄鋼労働組合)が反対を表明しましたね。


橋本 民主党の支持母体の一つは労働組合です。しかもバイデン前大統領は、党内で労組の窓口役を果たしてきた。外国企業の日鉄には非常に不利な状況でした。たとえUSスチールと合併契約は結べたとしても、それを認めてもらうには、大統領が首を縦に振らないといけない。苦戦は予想していましたが、この大統領選の時期を乗り切れば、アメリカ政府は冷静な判断を下すだろう。そう思っていました。


櫻井 バイデンさんは落選しますが、代替わり直前の今年1月3日、安全保障上の懸念を理由に買収計画への禁止令を発表します。


橋本 USスチールとの合併契約の履行期限は今年6月まで。残された時間は5カ月ちょっとしかなかった。この間にトランプさんから前政権の決定を覆す大統領令を得られれば、まだ望みがあると考えました。あらゆる専門家から「あり得ない」と指摘されましたが、私は常日頃から「1%でも可能性があるなら挑戦する」と考える。新日鉄、ひいては日本の製造業が凋落した原因は、挑戦意欲を失ったことでしたから。


櫻井 諦めなかった。


橋本 バイデン前大統領を相手取って行政訴訟を起こしました。専門家の方々から「勝ち目がない」と言われましたが、その根拠は前例がないということだけ。私共は本件を精査して勝訴の可能性が50%あると判断しました。アメリカは裁判官の権限が強く「ディスカバリー制度」が発動されると、政府に不都合なことでも判断に至る経緯を開示しないといけない。我々の主張は、前政権の買収禁止令が違法な手続きに則って、結論ありきだったというもので、それが現政権にとっても都合が悪くなれば裁判をしたくないとなる。


櫻井 それが影響した可能性があるということですね?


橋本 はい。4月7日にトランプ大統領の再審査命令が出ました。たまたま石破総理が電話会談した日と重なったので、日本のメディアの中には・橋本さんは石破さんにお願いして、大統領に再審査を命じてもらった・と報じたところもありましたが、トランプさんはそんなにやわじゃない。


櫻井 そのとおりです。大胆な戦略の背景には、日本男児の毅然とした姿勢があった。率直に言って、トランプさんは非常にやりづらい相手でしたか。


橋本 そうでしたね。


櫻井 再審査が認められてから契約を履行する期限までの2カ月強、買収を認めてもらうため、どのような戦略を練られたのでしょう。


「大統領の好きな言葉」


橋本 私は、トランプさんの著書や彼を題材にした映画などすべてに目を通しました。そこで導かれた結論は、トランプさんと価値観を巡って争っても意味がないということです。彼の価値観は、力強いアメリカの製造業を復活させたい、輝いていた時代を取り戻したいということ。これに対して「関税だけで製造業は復活しませんよ。保護主義の下で衰退した歴史があるでしょう」などと説得しても意味がない。私は学者ではありません。交渉が決まるまでトランプさんが嫌がる「買収」とか「100%子会社化」といった言葉は使いませんでした。彼が5月30日(日本時間31日)、ピッツバーグにあるUSスチールの工場で大勢の労働者を前に「パートナーシップの実現だ」と仰いましたよね。あれも実は私共から伝えた言葉なのです。


櫻井 そうでしたか。


橋本 トランプさんは、アメリカを支えてきたUSスチールを自らの手で再生させたい。それが高い関税で実現できるはずだと選挙では訴えてきた。確かにアメリカが世界の工業の中心だった時代は30%前後の高関税でした。そうした価値観を尊重しつつ、こちらとしては「投資も必要」という部分は譲れない。大統領の側近から「トランプの嫌いな言葉を使っちゃダメ」と聞かされていたので、我々は「買収ではなくパートナーシップの実現と言います」と提案したら「それはいい」となったのです。


櫻井 USスチールの工場が立つ地元の人たちへの根回しも行っていたそうですね。


橋本 当社の森高弘(もりたかひろ)副会長は、現地で1000人以上の関係者に会いました。買収に反対だった地元政治家や共和党と民主党双方の議員たちから、地域社会の人々も含め、みんなワンボイスに地元の声として「投資は必要」と言ってもらえた。トランプさんも政治家ですから、地元の声は無視できなかったと思います。


櫻井 5月末、多忙な合間を縫ってトランプさんがUSスチールの工場で演説して拍手喝采を浴びたのは、そういう事情があったのですね。


橋本 しかし、トランプさんはあれだけ熱狂的な演説を行いながら、買収を認めるサインまでは踏み切らなかった。高関税を進めてきた立場を考えると迷いがあったのでしょう。そこで私共はアメリカ政府に一定の監督権限を与える「黄金株」の提案をしました。国民にもわかりやすく説明できるよう「大統領はチェンジマインドしたわけじゃない。よりいいものを……」


櫻井 「獲得したんだ」と説明できる。


橋本 その通りです。トランプさんはゴールド好きとしても知られていますし、メディア露出の際、わかりやすさを求めます。「黄金株」なら、いかにも大きなものを得たような感じで国民に説明しやすい。前述の側近からも「大統領の好きな言葉で中身をわかりやすく」とも言われていました。結局トランプさんがサインしてくれたのは、契約期限に間に合うデッドラインの6月13日の18時でした。


櫻井 本当にギリギリだった。他方で、決め手となった「黄金株」を譲ったら、経営の自律性が損なわれる可能性はありますか。


橋本 「黄金株」を含む「種類株」は、ある一定の権限が付与されます。それについて精査しましたが、本社を国外移転しないなど、我々が明らかに不利になる条件はありませんでした。


櫻井 大事なものは譲らないけれど、譲るべきは譲って、絶妙な条件で決着した。今後、日鉄はUSスチールに技術を投入していくわけですが、人材育成が課題ですね。アメリカの鉄鋼業が弱体化している現状では、日鉄から人材を送り込むということになりますね。


橋本 アメリカに進出する日本の自動車メーカーも同様です。現地では製造業の従事者がどんどん減って1300万人を切っている。さらなる問題はエンジニアが圧倒的に少ないことです。設備の新設や更新、研究開発を担うマンパワーが不足しています。アメリカでは大学で鉄や車作りを学ぶ学生はほとんどいません。台湾の半導体メーカーTSMCですら、米国工場では台湾人の技術者しかいない。これでは日本から大量に技術者を送るしかありません。まず40人を派遣しましたが、今後は100~150人ぐらいに増やしていかなきゃいけないと思っています。


櫻井 アメリカでの成功を祈りつつ、日本国内の鉄鋼業はどうなるのか。日鉄が海外に活躍の場を求めてしまえば、国内の空洞化が進んでしまうのではないかと心配でもあります。


橋本 残念ながら、日本国内で製鉄所を新設して、増産するのは現実的ではありません。1965年を最後に日本では製鉄所の新設は行われておらず、今後の予定もありません。若い人たちを鍛える場が国内にはないのです。日本の鉄鋼消費は90年の9500万・がピークで、現在は5000万・と半減。その間、我々は輸出を増やして、なんとか生産を維持してきた。日本で生産された鉄鋼製品の50%は輸出向けですが昔は15%ぐらい。この規模で輸出している国は、世界でも日本と韓国、中国しかありません。その中でも当社は単一企業としては世界最大の鉄鋼輸出会社です。3500万・ベースで生産していますが、これは中国の国営企業を除くと、世界の中でも一企業が一つの国で作っている最大の量です。国内における開発力や技術力を保つためには何としても生産を維持していきたい。


中国が狙う重要市場


櫻井 あくまで日本に基盤を残すというお考えはわかりました。アメリカに進出して、いずれ世界一の製鉄メーカーに返り咲こうとすれば中国と相対することになります。それについては、どのような戦略をお持ちですか。


橋本 山崎豊子さんの小説『大地の子』にも出てきますが、かつての新日鉄は、中国ナンバーワンの鉄鋼メーカーとなる企業の立ち上げから製鉄所の建設、技術移転まで協力しました。私は79年に入社しましたが、当時の新日鉄会長・稲山嘉寛さんに「なぜ中国に最新鋭の製鉄所を作るんですか。日本の製鉄所は老朽化が始まっている。将来困らないんですか」と尋ねた。


櫻井 よくぞ言ってくださいました。


橋本 当時の会長からは「中国の需要が増えるから心配しなくていい」という話がありました。確かに、中国から日本に鋼材が輸出されることは、すぐには起こらなかったという意味では正しかったかもしれません。しかし、一番大事な技術が抜けるという点で見ればどうだったか。


櫻井 去年、日鉄は中国の事業から手を引きましたね。


橋本 中国の鉄鋼市場は供給過多で採算が取れません。さらには、一緒に事業を行うと日鉄の中核技術を提供せざるを得ません。


櫻井 中国メーカーは日本にも攻勢をかけている。


橋本 中国からの安値輸出、これは世界中で起きています。日本の対抗策としては、自前の設備を更新して新鋭化させることで、中国が作れない製品のウエイトを増やす。この6年間、我々は国内で2兆円ほどの大きな投資をしてきました。また中国が狙う海外の重要市場への進出を許さないこと。決して譲ってはならないマーケットはタイです。


櫻井 タイですか。


橋本 タイへの直接投資は、長年にわたり日本がダントツでしたが、去年の統計では恐ろしいことに中国と香港を合わせると日本の約4倍なのです。


櫻井 それは看過できない。


橋本 タイは日本車しか走ってないというイメージは過去のモノで、中国の電気自動車が街中でガンガン目立っている。鉄鋼分野では、すでにベトナムやインドネシア、マレーシアは中国の影響下に入っています。


櫻井 その他の国はどうでしょうか。


橋本 タイ以外では新興国で一番伸びるインド、そしてアメリカ。この3カ国で中国のプレゼンスを許してはいけないと考えています。対中国という観点を抜きに当社の経営戦略は成り立ちません。常に頭の中は対中国を意識しています。


櫻井 鉄など国家を支える基本的産業が伸びなくなっている状況なのに、政府は無策で逆に国力をそぎ落としつつあるのでは。


橋本 産業の基盤である電力政策にしても、日本で投資するための予見可能性が高まったとは言い切れません。残念ながら、日本の政治が社会問題を解決する力はゼロに等しい状況です。


民間だけが頑張っても…


櫻井 安倍総理亡き後、日本の政治にはリーダーシップがなくなり、石破政権の下で完全に漂流しています。明治維新の頃の日本は、経済力や軍事力は劣っていましたが、全国から多様な人材が輩出した。明治の末に官営の八幡製鐵所まで生まれた。今の政界には、未来の国づくりを任せられる政治家があまりに少ない。そうした人材は政界より民間にいると思います。企業は自力で生き残る必要から、国益を守ろうという教育もできている。世界を相手にしてきた経営者に、今後の国のあり方をお尋ねしたい。


橋本 今の時代に必要なのはトップ間で交渉できる人材です。国際競争に臨む企業人は、常日頃から緊張感のある交渉などで鍛えられ、市場から評価される世界に生きています。翻って日本の政治家は、選挙の時だけ受かればよくて、要は競争になっていません。アメリカと比べても国会議員の数が多すぎます。国会で相手をしなければいけない官僚が、本来すべき仕事に集中できず非効率です。これからの時代、民間だけが頑張っても上手くいきません。官民連携で戦略的に動かないと難しい場面が増えるでしょう。グローバルセンスがあり、強いリーダーシップを持つ政治家が求められます。脱炭素を例にしても、欧州は自分の都合でルールを変えてくる。従来以上に政治のリーダーシップが大事ですが、足元を見たら、日本は逆の方に向かっているのではないかと心配になります。


櫻井 これまでのお話を聞き、国難の時代だからこそ、政府と民間がまとまり、国家として賢い産業政策を打ち出すべきだとの思いを新たにしました。政治がどこまで成長できるかと共に、日鉄の今後に注目しています。

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