闘うコラム大全集

  • 2026.07.16
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法王14世の回想、中国の言葉は全て嘘

『週刊新潮』 2026年7月16日号

日本ルネッサンス 第1203回


7月5日、都内でチベットのダライ・ラマ法王14世の91歳の誕生日を祝う会があった。法王への敬愛の念から多くの人々が集った。


法王は10代の少年の頃から中国共産党の毛沢東をはじめ歴代の指導者と対話を重ね、チベットと中国の関係について交渉してきた。その75年間を振りかえった自伝、『声なきものの声』(以下『声』)の日本語版(訳・三浦順子、監修・櫻井よしこ、産経新聞出版)が上梓された。


ダライ・ラマ法王14世は1935年7月6日に生まれた。13世の崩御をうけて2歳で次期法王に選ばれ、40年2月、4歳と7か月で即位した。


中華人民共和国建国直後の1950年、中国はチベットに侵攻を開始、以降、50年代を通して烈しい侵略を続けた。当時、法王は西洋における神学博士号に匹敵する仏教の最高学位取得に挑む学生だった。振りかえれば幼児期に始まった仏教哲学や心理学の学びが若き法王を確実に鍛え、賢明な指導者に育て上げていた。


チベット侵略開始から間もなく、中国共産党は法王を北京に招いた。チベット国民が法王の命に危険が及ぶと懸念し強く反対する中、法王は54年7月に訪中した。迎えたのは中国共産党主席の毛沢東、総理の周恩来、人民解放軍総司令官の朱徳ら、百戦錬磨の幹部である。毛61歳、法王19歳の時だ。


法王が振りかえる。


「これまでまったく正式な訓練を受けてこなかった複雑きわまる政治分野でも、学ばなければならないことが大量にあった。ただ、これまでしっかり仏教哲学と仏教心理学を学んできたために、チベットの民の指導者として複雑きわまる政治的問題に直面しても、なんとか正気を保つことができた」


チベット仏教の最高指導者たるに相応しい価値観と覚悟を法王は身につけた。だからこそ、屈することなく正気を保てた。


半年間の中国訪問で青年法王は、対話ではよい話ばかり聞かせる毛沢東は結局、仏教の破壊者だと気付いた。75年の間には少なからぬ会談、書簡のやりとりがあったが、中国共産党幹部の語った言葉には一片の真実もなかったと、断じている。


憎むべき傲慢さ


私は2011年9月、インド北方のダラムサラを拠点とするチベット亡命政府を訪ね、初めて法王14世にお会いした。客を迎える広すぎもせず狭すぎもしない快適な部屋の広い窓の外には、澄み切った青空が高く広がっていた。法王は自ら紅茶を淹れ、闊達で朗らか、張りのある声で語った。


以来、法王来日の度にシンクタンク「国家基本問題研究所」とチベット議連が協力する形で、国会での講演会に招いた。加えて私はネット配信の「言論テレビ」で法王の言葉を伝え続けた。


『声』で、法王はチベットの「中道のアプローチ」に重きを置いて語っている。中道のアプローチとは、チベットは中華人民共和国の一部となってもよい、外交と防衛は中国政府に任せる、だがチベット人はチベット仏教を学び、チベット語を話し、チベット文化に従って生きることを保証されなければならない。その条件さえ整えば中国の一部になるのを了承するという考え方だ。


抗い難い力で迫る14億人の中国に、600万人のチベットが民族としての特性を保ちつつ生き残るにはこうして耐えるしかないと法王は考えた。


毛沢東らは法王の提案に、時には機嫌よく耳を傾けた。前述の北京訪問では「自治というゆるぎない約束を得たようにも思えた」瞬間もあった。しかし、今法王が吐露するのは中国の言葉は全て偽りということだ。


今年7月1日、中国政府は「民族団結進歩促進法」を施行した。国内56民族を全て中国人にしてしまう法律だ。全ての子供は幼稚園から高校卒業まで中国の標準語(マンダリン)で学ぶよう強制され、漢民族を除く全民族の文化的アイデンティティは奪われる。


もはや国際社会の目を気にする必要がない程力をつけたと中国は自負しているのであろう。力で撥ねつけるという憎むべき傲慢さである。


チベット人、そして私たちはどう対処すべきか。法王14世がひとつの事例を語る。


長老の僧、ロプン・ラは法王がインドに亡命した後、中国共産党に逮捕され、刑務所で心身の拷問を受け続けた。18年間にわたる獄中生活を辛うじて生きのびたロプン・ラは、命旦夕(めいたんせき)に迫る状態で出獄を許される。数年後、彼は遂に中国を脱出してダラムサラの法王の下に辿りついた。


ロプン・ラは告白した。


「投獄されていた間、何度か、本当に危険を感じたことがあります」


命の危険を感じたのであろうと思い、法王は尋ねた。するとロプン・ラはこう言ったのだ。


「中国人に対して慈悲の心を失いそうになる危険です」


「力に訴えること」


言葉もなく頭を下げたと法王は述懐する。その上で法王は中国人への慈悲の心を失わないようにとチベット人に呼びかける。


だが、慈悲の心でチベットとチベット人を守れるのか、と1933年に崩御したダライ・ラマ13世の次のような遺言を紹介してもいる。


「私たちは、どこに行っても破壊と恐怖をもたらす野蛮な赤い共産主義者たちから身を守らなければならない。彼らは最も忌まわしい存在だ。彼らはすでにモンゴルの大半を呑み込んだ……。彼らは僧院を略奪し、破壊し、僧たちを無理やり軍隊に入隊させるか、虐殺するかした。どこであろうが宗教に出会えば、彼らはそれを破壊していく」


「私たちは自らを守る準備をしていなければならない。さもなければ、私たちの精神的・文化的伝統は完膚なきまでに抹殺されるだろう」


そして、こう書いている。「それが適切なら、平和的な手段を用いなさい。しかし、必要とあれば、力に訴えることをためらってはいけない」


14世法王は、13世法王のこの予言的な遺言にチベット政府が耳を傾け損ねたことを「悲劇」と呼び、最後にチベット同胞に呼びかける。


「いかに空が闇に閉ざされていようと、決して希望を捨てないでほしい。(略)『九転び九起き』(略)私たちチベット人はその悠久の歴史の中でいかなる困難に遭遇しても、そこから立ち上がって来た古い民族なのだ」


「私の年齢と、今日の国際社会における中国の存在感を思えば、時は我々の味方にあらずと考える人もいるかもしれない。だが私はそれに同意しない」


「本質的に安定感のないシステムである全体主義に時が味方することはない。時は、自由を渇望するチベット人と中国の人々の味方なのだ」


法王14世の言葉はチベットだけでなく、専制独裁国家の脅威に直面する全ての国々に向けられている。わが国を含む自由主義諸国は従来に倍加してチベットを支えるのだ。慈悲の心が独裁国家の暴力に打ち砕かれる世の中を許容してはならないからである。

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