闘うコラム大全集

  • 2019.06.20
  • 一般公開

2000万円と100万円のショック

『週刊新潮』 2019年6月20日号

日本ルネッサンス 第856回


「ショックですよ。僕らの世代は2000万円と言われてもどうしようもない」


30代の技術者で、小規模ながら会社を経営している男性が語った。妻と共働きで、幼い娘は2歳になったばかりだ。


金融庁は6月3日、定年後の夫婦が95歳まで生きるには約2000万円の金融資産が必要だとの報告書をまとめた。平均値で、夫65歳、妻60歳以上の世帯では毎月の生活費が約26万円、年金収入等は約21万円で、月約5万円の不足が生じる。不足分は20年間で1300万円、30年間では約2000万円の貯蓄が必要だということのようだ。


日本人の平均寿命が飛躍的に伸びたために、私たちは老後の資金について以前よりも堅実に考えなければならないのは事実だ。かといっていきなり2000万円という数字を出されれば国民が困惑するのは当然だ。


前述のように若い友人が感じた「2000万円ショック」から、私は自身が体験した若き日の「100万円ショック」を思い出していた。


20代後半のことだ。当時勤めていた米紙東京支局の突然の閉鎖で、私はフリーのジャーナリストになった。だが、書き手としての私は正真正銘、無名だった。それでも私はジャーナリストになりたかった。そこで売れるかどうかもわからない記事に取り組んだ。記事案を考え、納得いくまで取材した。苦労して何度も書き直した。しかし記事は中々採用してもらえない。取材費だけが重なり収支は赤字で、掛け値なしの貧乏暮らしが続いた。


自立して生きていくために、苦肉の策として翻訳を始めた。誰かが書いたものを日本語にしたり英語にしたりするのは、記事案を考え取材する苦労とは別の難しさがあったが、翻訳の仕事は確実な収入をもたらしてくれた。


見たこともない大金


当初取材の合間に翻訳をしていたのが、段々、翻訳に費やす時間がふえていった。そんなある日、私は通帳を見て驚愕したのである。見たこともない大金がたまっていたからだ。その金額に、私は思わず知らず、恐怖心を抱いた。こんなに沢山のお金がある。しかし、ジャーナリストになりたいのに、このお金は全部翻訳料だ。どうしよう。


このまま続けたら私は駄目になる。急いで路線変更しなければ本来の目標を永久に失ってしまう。そんな切迫感にかられて、私は翻訳の仕事を基本的にすべてやめ、再び、効率の悪いジャーナリズムの道に戻った。


で、そのときの通帳の金額が約100万円だったのである。20代後半の私にとって、100万円がどれほどの大金だったかということだ。


若い世代の金銭感覚は、多少ゆとりの生まれる中高年層のそれとは異なり、慎ましいものだということを、政治を行う人々は忘れてはならないだろう。私自身のはるか昔の体験を思い出せば、いま、若い世代の人たちが「2000万円」という数字を見て、どんな気持ちになるか、わかる気がする。


世界一の長寿国になった日本の主人公である私たちは、長生きする分、自分の人生をどう構築していくかについて冷静に考えるべきだ。考えなければならない点は沢山あるのだが、それらは後述するとして、大蔵省出身で前スイス大使の本田悦朗氏の疑問の声に耳を傾けたい。氏は今回の麻生太郎金融相の情報の出し方を批判する。


「このような情報の出し方は、金融庁の考え方を代弁するものでしかありません。日本の高齢者が保有している貯蓄額を意識してか、『金融資産はさらに必要』などとも、報告書には書かれています。資産形成のためにもっと投資しなさいという金融機関の主張そのものです」


高齢国家の国民の生き方を支えるには、どの程度のお金が必要か、そのための税制はどうすべきか(財務省)、健康をどう維持していくのか、仕事はいつまで続けるのか(厚労省)、すべての省庁の管轄を越えて如何に人生を意義深くできるか、楽しめるかなど、縦割り行政を脱した全体的な発想が必要だ。金融庁の発想に基づいた狭い見方だけでは役に立たないばかりか有害である。


おまけに今回の発表は不必要な心配を引き起こすと本田氏は批判する。


「きちんと説明すれば、高齢になってからの生活を心配するのでなく、違った目で見ることができます。若い世代にはまだ時間があります。加えて高齢者世帯の貯蓄額は平均で2300万円、但し、中央値は約1500万円で、格差はあります。それでも高齢者世帯にこれだけの貯蓄があることを正しくとらえることが冷静な議論には必要です」


前向きの発想


総務省の家計調査では世帯主が60代の家庭の平均貯蓄額は2382万円、負債が205万円で、差し引き2177万円の資産がある。世帯主が70歳以上になると貯蓄は2385万円で負債は121万円、資産は2264万円だ。


持ち家比率は60代世帯主の場合が93.3%、70代が94.8%である。


右は現実の数字である。この現実の中で、年金だけで生活している高齢者は、現在すでに貯蓄の取り崩しを行っているであろうが、金融庁のいう2000万円の不足を補う財力を持っている人は少なくないのである。但し、中央値は1500万円であり、「2000万円の不足」を補いきれない世帯も存在すること、そのことへの政策も忘れてはならない。


日本は長寿国を目指し、見事に実現したが、そのことを私たちはどう楽しみ、どう活用していくのがよいのか。これこそ、いま考えなければならない課題だ。国民皆保険で医療体制を整え、自身の力だけでは生活が成り立たない人々への種々のセーフティネットを準備した。それはこれからも充実させるべきである。


他方、日本人は勤勉である。働けるうちは働き、なるべく自分のことは自分でしたいと考えてきたはずだ。「生涯現役」や「ピンピンコロリ」などの言葉の実践こそ庶民の理想であろう。


年金だけで暮らすよりも、誰かのために役立ち、働くことを楽しみ、収入を得て、何がしかの税金を納める立場に立ち、孫にも小遣いを奮発できるような人生を多くの日本人は望んでいるのではないか。


であるならば、日本人の労働に対する誠実さを上手に#抽#ひ#き出し、前向きの発想を促す施策こそ望まれる。若い世代を元気づけ、国の財政も支えるには何が必要か。中央政府と地方自治体は何をすべきか、金銭の多寡を超える精神生活の豊かさを育める地平に如何にして辿りつくか。こうした発想と政策こそ必要だ。


同時に私たち国民の側も自分の人生を最終的に引き受けるのは自分自身だと認識したい。ちなみに私は死ぬ1週間前まで、何かしら書いていたいと願っている。

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