闘うコラム大全集

  • 2022.07.28
  • 一般公開

私が見た人間『安倍晋三』の飾らない素顔

『週刊新潮』 2022年7月28日

日本ルネッサンス 拡大版 第1009回


「憂国の政治家」として論陣を張る一方、会えばその人柄に魅了される人も多かったという。「座談の名手」とも称された安倍元総理と親交が深かったジャーナリストの櫻井よしこさんが、訃報に際して思い起こされる数々の交流秘話を、本誌読者のために綴ってくれた。


凶弾に斃れた安倍晋三元総理は感情豊かな人だった。怒るときには本当に怒った。


「失敬じゃないですか!」


「失礼じゃないですか!」


野党の根拠なき攻撃や昭恵夫人への誹謗中傷に対して、気色ばんでこう反論する国会での姿は、多くの人々の記憶に残っているはずだ。「失敬だよね」「ひどいよね」。森友・加計学園問題の最中、幾度か交わした会話の中で、元総理はこうした言葉を繰り返した。


けれど、それ以上は言わない。気の置けない仲間同士で誰かの批判をするとき、口を衝いて出てきがちな下品な悪口雑言を、私は安倍氏から聞いたことがない。


政治家同士の駆け引きの中で安倍氏は幾度も騙された経験がある。安倍氏暗殺を受けて涙ながらに悲しみ、怒ってみせた政治家の中には、あからさまな裏切りを重ね、政界を泳ぎ続けている人もいる。その詳細を聞いたことがある。


その時その政治家がどんな表情でどんな言葉を口にしたか。人払いをして二人きりになったとき、総理との距離感はどのくらいで、どんなヒソヒソ口調だったかなども聞いた。そんな時でも安倍氏の怒りの表現は極めて抑制的で、一言でいえばたしなみ深い人だった。


しかし、いま、安倍氏は心から怒っていると思う。暗殺事件から十数日、犯人について少なからぬ情報が明らかになってきた。統一教会への積年の恨みの一方、元総理への恨みはないとSNSで犯人は書いている。ではなぜ、安倍氏を殺害したのか。なぜだ、なぜだ!私の心はおさまらない。


暗殺された元総理もきっと言っているはずだ。「ひどいじゃないか」と。けれど安倍氏はこんな場面においてさえ、怒りに駆られて我を忘れ、罵詈雑言を口走ることはないだろう。幼少時から政治家は怒りの表現をどうコントロールすべきなのか、どこで止めるべきなのかを祖父岸信介の巣鴨での体験や、首相となってからの日米安保改定騒動への対処の仕方などから学んでいたと思う。


暗殺犯の男には想像もつかないであろうが、安倍元総理は国民全員の幸福を願っていた。世界の価値観が変わると共に世の中の制度や一人一人の生き方が多様化していく中で、わが国はどのような社会・国を作っていくべきかに心を砕いていた。多様な生き方を抱きとめる重要性を十分に承知しながら、大多数の人々の生き方や価値観を社会の基盤に据えて穏やかで安定した国を維持するのがよいと、安倍氏は考えていた。


LGBTQ、シングルマザー、単独親権か共同親権か等々、家族の在り方に関する課題で私たちは度々意見交換をしたが、そんな折、本年5月16日の月曜日、安倍氏が言った。


「この本、読んでみて下さい。家族がどんなふうに作られてきたか、国家と家族の関係はどう形成されてきたか、書いてあります」


安倍氏が示したのは古びた一冊の岩波文庫『家族・私有財産・国家の起源』で、エンゲルスの著作だった。


「私も勧められて古本を購入したんです。読み始めたばかりなんですがね。前の人がところどころ線を引いてくれていて、分かり易いんですよ」


安倍氏は照れ隠しで笑った。戸原四郎氏が訳し、解説している。それによると同書はエンゲルス一人の作品ではなく、その前年に死去したマルクスの「遺言執行」の書だそうだ。人間の歴史を振りかえると、家族が最初に形成されて部族に発展したわけではないこと、部族が人間社会のそもそもの本源的、自然発生的な形だったこと、私有財産が徐々に形成される中で、母権的な氏族制度の枠が破られ、父権を軸とする家族が生まれたこと。大雑把にいえばこういう内容だと思う。


「孤独なんだよね」


その後、同書について安倍氏と語り合う機会がなかったため、氏が同書をどう読んだか、わが国の家族の在り方の議論にどんな光を与えてくれるはずだったのかは、今となってはわからない。ひとつ言えるのは、安倍氏が読書家であり、よく学んでいたということだ。


かといって元総理は「本の虫」ではない。とても朗らかに、映画やドラマの話をするのが好きだった。音楽よりずっと好きだった。ある日、突然言った。


「イギリス王室のはなし、ネットフリックスで見るといいですよ。『ザ・クラウン』です!」


私が動画配信サイトのネットフリックスを見始めたのはこのときからだ。ソニー・ピクチャーズが100億円以上をかけ製作したイギリス王室の物語『ザ・クラウン』は世界中で大変な人気を博していた。シーズンはⅠからⅣまで展開していた。


暫くしてお会いすると、突然、聞かれた。


「『ザ・クラウン』、見ました?」


「ええ。でもあそこまで内輪話を暴露してよいのか、他国の王室ながら心配です」


「そうなんですね。でも、イギリスって凄いですね。どんどん描いていく。どこまで見ました?」


好奇心あふれる安倍氏は性急である。世界で幾千万もの人が観ている同作品は、何年もかけ製作し公開された長寿のヒット作だ。王室物語が実話に基づき再現され、女王陛下はじめ王室の方々の公務の様子の再現はほぼ完璧と言われている。


作品は最初から強烈な印象で迫る。エリザベス2世女王陛下の夫君、フィリップ殿下はヴィクトリア女王の血を引きながら、4人の姉がナチスドイツと関係していた。安倍氏が語る。


「フィリップ殿下はスコットランドの寄宿学校(ゴードンストウン)に送られるんですが、一族とナチスの関係、欧州では許されない暗黒の家族史に彼は直面するんですね」


ここで彼は凄まじい苛めにあい、身心共に深く傷つきながらも耐え抜いた。エリザベス女王と結婚し、皇太子を得たとき、チャールズを自分と同じ寄宿学校に入れた。チャールズも自分同様に厳しい試練に耐えて、強い人間になってほしいとの想いからだった。しかし作品はチャールズの脱落を生々しく描ききった。


別の日、また話題が『ザ・クラウン』に及んだ。


「ダイアナのところまで見ました? あれはやっぱりチャールズが酷いよね」


同時にこうも語った。


「幼い頃、チャールズは両親が多忙で、あまり一緒に過ごしていないんですね。孤独なんだよね。だから、自分を受け入れてくれる大人の女性を求めていたのかもしれませんね」


当事者の一方を悪いと決めつけるのではないのだ。そして、いかにも愉快そうにこんな話も教えてくれた。


「この前、ジョンソン(英首相)と会ったとき、聞いたんですよ。『ザ・クラウン』の話は真実かと」


安倍氏の笑顔がはじけた。


「彼は少し考えて、大英帝国の首相としては答えられない。但し、女王陛下には日本国の首相が『ザ・クラウン』を観ていると報告しておく、と言っていました」


秋篠宮家の件


安倍元総理はジョンソン首相とここまで打ち解けて話せる間柄だったのだ。『ザ・クラウン』を安倍氏は日本にひき較べて見ていたとも思う。作品はこれでもかこれでもかと英王室のスキャンダルを暴いているが、王室、あるいは皇室を守るという共通の重い責務を担う二人の首相は、懸念も共有していたはずだ。


メディアが秋篠宮家の件を批判的に取り上げ続けることについて、安倍氏は度々語った。


「秋篠宮家を貶めることは、皇室全体を貶めることに、どうしてもなっていく。皇室の権威を貶めることは日本を貶めることなんです」


過ぎたる非難を浴びせることで皇室と国民の絆が損なわれてしまえば、日本国の力自体が本当に衰退していくと、安倍元総理は人一倍気にかけていた。


少し前のことになる。2011年の晩秋、安倍元総理はブッシュ政権とイラク戦争について書かれた『ウルカヌスの群像』(渡辺昭夫監訳、共同通信社)を読んでみるようにと、私に薦めた。


ウルカヌスとはローマ神話に出てくる火と鍛冶の神の名だ。同書では、ブッシュ政権の枢軸を形成した人物6名、チェイニー、ラムズフェルド、パウエル、ウルフォウィッツ、アーミテージ、コンドリーザ・ライスを総称して使われている。


ウルカヌスはアメリカこそ世界最強の国であり続け、その民主主義の価値観と理念を世界中に広げていかずにはおかないと決意した人々だった。彼らはそれこそが正しい道だと信じて邁進した。経済を重視したクリントン政権の路線と訣別して、アメリカは世界最強国の力をさらに強化させ、どの国も抵抗できない軍事力の時代に入った。それこそがアメリカにとっての国益であり世界の善なのだと信じたウルカヌスたちは、どんな思想的形成を経てそこに至ったのか。アメリカ研究の大テーマが、6人の言動を通じて生き生きと描かれている。


「米国人に勧められて読んだのです。興味深かった。面白くて、そうかと思うことが多かった」


と、安倍氏は語った。私にとっても非常に勉強になった一冊である。奇しくも日本は民主党政権下で、この書はいわゆるリベラル勢力への疑問の書でもあった。


武力で中東をおさめようとするブッシュ政権の政策は失敗していったが、ではその後の世界に私たちはどう対処すべきなのか。思想的背骨を失った日本国は答えを出し得ていない。


そして今、私たちはアメリカを凌駕しようと決意した中国の脅威に直面している。安倍元総理は、中国の脅威こそ歴史上最大のものになると認識し、「台湾有事は日本有事だ」と喝破した。日台の運命は重なるのであり、中国による侵攻の危機は近い。


誰よりも危機を切迫したものと捉えていた安倍氏の危機意識を肝に銘じ、備えることが大事だ。憲法改正を遂行する強い決意を持つということ、これが岸田政権に残された遺志であろう。

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